鹿戸雄一師

鹿戸雄一調教師。

「ショックを受けた」
 日本の8月ではあり得ないほどの冷たい夜風を受け、鹿戸雄一はそう言った。05年、イギリス・ニューマーケット。街外れのパブから宿舎まで、真っ暗な一本道を二人で歩きながら話した。鹿戸は初めてオーストラリアで騎乗した時のことを思い起こしながら冒頭のセリフを吐いた。
 62年5月生まれの鹿戸。父親が牧場で働いていた。自然、小さい頃から馬と親しむ生活をした。小学生の頃からポニーに跨り、中学では草競馬に騎乗した。中学を出ると騎手を目指し、馬事公苑生になった。当時はそこを卒業してもすぐにデビューできるわけではない時代。見習い騎手として、再び騎手試験に合格しなければならなかった。
「4回目の試験、21歳の時にようやく合格しました。馬事公苑では杉浦(宏昭)君や田面木(博公)君と同期だったけど、デビューは僕が一番遅くなりました」
 84年、久保田金造厩舎からデビュー。師匠が勇退する際、オーストラリアへ連れて行ってもらい、現地の騎手たちと接し、ショックを受けた。
「勝つためには何でもしてやろうというハングリー精神を感じました。そういう人たちがいることを知り、自分もこのままではいけないと思いました」
 心を入れ替え帰国した。なんでも自分の実になるのなら…と貪欲に取り組む姿勢がいつしかリーディングトレーナー・藤沢和雄の目にとまった。厩舎の手伝いをしつつ、競馬にも乗せてもらった。
「そのうち時代の流れもあって僕がジョッキーを続けていくには少し厳しいかな……って考えるようになりました」
 騎手を目指した時のように自然と調教師に矛先を向けた。 (さらに…)

永島太郎騎手

 「角田騎手に間違えられたんです」
 初めてJRAで騎乗した時のことを思い出し、そういって磊落に笑ったのは永島太郎。園田競馬の騎手だ。74年1月生まれで現在34歳。騎手会長をも務める。
 生家近くの京都競馬場へ幼い頃から出入りした。ミホシンザンの勝った天皇賞に心を躍らせた。中学に通う頃になるとそれまで単なる憧れだった騎手を現実的に考えるようになった。中学三年生で自ら願書を出しJRAの競馬学校を受けた。
一次試験に合格。二次試験に臨むため東京へ向かう新幹線。「受かったら思う存分食べられなくなるだろうから」と父から弁当を勧められ平らげた。東京に着いてからも「力をつけていけ」とまた食事をした。その結果、体重をオーバーしその場で「騎手は諦めてくれ」と勧告された。それは試験官の個人的な意見ではなく、JRA側からの通告だった。
「父は未だに『悪いことをした』って引きずっています」 (さらに…)

上原博之師

 「涙腺が弱いから…」
 1月28日に行われたJRA賞授賞式の席で、調教師・上原博之はそう呟いた。JRA賞最優秀短距離馬を手土産に引退するダイワメジャー。彼とともに戦った四年半ほどの歳月は、上原の馬人生を何倍も濃密なものにした。

 57年生まれの上原。高校時代、馬術の世界で彼の名は全国に轟いた。東日本大会で優勝。国体でも準優勝を果たした。
 中央大学法学部に進学後も馬術は続けた。全日本学生選手権3位など、昂然と胸を張って馬を操った。
馬術界に上原有り。しかし、決して浮かれた気分にはなれなかった。狭い世界でのみ通じるコンセンサスに苛立つ日もあっただろう。その思いが「もっと一般社会に馬術を普及させたい」という願いとなり、その願いをかなえてくれそうな就職先を探すことになった。しかし、思うような職場はなかなかみつからない。JRAの受験にも失敗すると、もう一年、学生生活を続けることを決意した。これが、当時、本人が考えていた以上に、大きなターニングポイントとなるのだった。 (さらに…)

藤澤和雄調教師(08年2月掲載)

 厩舎の新年会の席で、藤沢和雄はため息を二つ、ついた。
 「昨年はどの馬もびっしりと目一杯に仕上げるようなことはしなかった。壊さないように、という仕上げで競馬に走らせたケースが多かった。だから、何回も走れた馬がたくさんいたし、そういう馬たちがいずれ勝ち上がってくれた」
そうした積み重ねた勝ち鞍は48。開業以来20年で13回目のリーディングトップ。それでもため息が二つ。

 一つは塚田祥雄の話をした時。初夏の悪夢を思い起こすと、自信家の藤沢にしては珍しく目を泳がせ、ため息をついた。
 二つ目のため息。これは、毎年のことだった。
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池添謙一騎手(08年1月掲載)

 ニュッと伸びてきた手に池添謙一は目を剥いた。ゲートの中での話である。枠を隔てる囲い越しに、隣の枠の騎手が池添の手綱を掴んだのだ。そして、少しした後、結び目のついた手綱が池添の元に返された。ポカンとする池添に、その騎手は口角をあげ、一瞬、眉もあげてみせた。2001年、夏の話である。
 歳月は流れ05年、06年。池添は二年連続で夏の小倉競馬の5日目に落馬をした。07年の夏は心機一転、戦いの場を北海道に求めた。しかし、一週だけ、ある馬のために関西へ戻った。デビュー前の調教で跨り、「フカヒレ級の感触」を得たその馬は、名をトールポピーといった。
 デビュー以来、出遅れたり、スムーズに馬群をさばいてあげられなかったりした。ソラを使ったり、ササッたりもした。
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